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「異邦人」ということが、ひところ言われたが、この言葉はどこからきたか? その前に学生時代、私の知り合いにこの字を「イボクジン」と読んだアホがいたので一応読みを書いておいた。 さて、「異邦人」とは外国人のことであり、読んで字のごとくだが、ただ、この言葉が文学青年などの間でささやかれる場合は、決まってフランスの有名なアルベール・カミュ(作家、劇作家、評論家)の同盟の小説の意、或いはそれを転用した意であるらしい。 そこでご存知の方も多いはずだが、念のために書くなら、カミュの「異邦人」は一九四二年の作で、有名な「不条理の哲学」に基づいて、青年ムルソーの理由のない殺人事件を描いたもの。 この作品が翻訳されて、わが国の読書家の間で読まれるようになってから、よくあちこちで「異邦人」が話題になり、それがいつしか単純に外人という言葉の代わりに、巷で使われるようになったと想われる。 「あの店の経営者は異邦人だぞ。でもとてもいい人だ!」 などと、カミュを読んだこともないようなオッサンがいうのも、こんなところからきたのだろう。 しかし、ついでだから書けば、この「異邦人」という言葉は、キリスト教から由来したもの。つまり、この言葉は、もとは旧約聖書で、イスラエル人の土地以外に住んでいた異民族のことをさしていったものであり、それがだんだんと宗教的な意味を帯びるようになり、偶像崇拝者、すなわちユダヤ教のイスラエル人が信奉する神様を信奉しない人々をさして、彼ら自信の選民意識から、見下げて呼んだ言葉なのである。 なお、カミュの「不条理の哲学」というのは、簡単に言うと、宇宙は理性的であり、人生が意味と価値を持っていることを要求するわれわれ平凡人の主観的な意志と、それにもかかわらず、宇宙は不合理で、人生は根源的に無意味で、おのれのまえには死が待っていて、明日というものがありえないことを知ることの矛盾相克から生まれる、とするもの。 もちろん、こういった矛盾相克に目を背けず、明晰な視線を向ければ、とうぜんのことながら、人は帰るべき故郷も、また希望の地もなく、絶対的孤独のなかにほうりだされた“異邦人”となることは明らか、というわけ。 そして、この不条理の人こそ彼の描いた「ムルソー」だから、この異邦人という言葉はたんなる外国人というような意味で使うのは、ちょっと間違い、ということになろう。 それは、本来の意でいえば、“不条理”に生きる人のことをこそ「異邦人」というべきであり、あるいは少なくともカミュのごとき思想はないにしても、いわばムルソーのごとき理由なき殺人でもやった人物のことを、かくは呼ぶべきであろう。 例えば、 「あのピストル魔は、なぜ、これという理由もなく人を殺すのだろう?」 「それは彼が“異邦人”だからさ」 こんな使い方のほうが、カミュの創造した異邦人の概念に近くはないだろうか。もっともこんな意味の“異邦人”がふえては困るが―。 昨今の意味なき殺人事件の多いこと。カミュはある意味現代社会を予想していたのかもしれない。 Sammy-P ポチしてくれたらうれしいです! にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 ![]() //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// |
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